神戸とJAZZの歴史

安田 英俊

関西のジャズは親しみやすいような

1960年代には、日本で一大ジャズブームが起こったことは、以前にも書きました。その後、1966年にビートルズが来日、フォークソングブームやグループサウンズ、そして和製ポップスと続いて、現在ではジャズがポピュラーの世界の片隅に追いやられてしまいました。60年代に、ジャズ喫茶で育った世代としては、寂しい気がしております。
ジャズに耳を傾ける人が増え、ジャズって良いものだと感じる人が増え、ジャズを演奏する人が増えて、ジャズを聴く機会が多くなれば幸せなのですが。

先日、東京のライブハウスで、ピアニストが童謡の「さっちゃん」を弾いていました。近くの人に聞いてみると「東京では、日本の歌はあまり聴かない」とのこと。そこへいくと、関西では、昔に聞いた日本の曲をジャズ風にアレンジすることが多いような気がします。
ピアノの梅田望実さんの「宵待ち草」、同じくピアノで最近亡くなってしまいましたが松田忠信さんの「浜辺の歌」、ヴォーカルの正木麻衣子さんがアロージャズオーケストラをバックに唄う「おてもやん」、アロージャズオーケストラリードアルトの河田健さんは「蘇州夜曲」。ヴァイブの鍋島直昶さんは「茶摘み」。生田幸子さんのピアノは「証城寺の狸囃子」。
最初のメロディでは、記憶を蘇らせ、小躍りしながら口ずさみ、引き込まれているうちにリズムが変わったりして思わぬ展開となり、バックもどんどん盛り上げる。聴く方は、途中でこれ何の曲だっけ。となって、最後に、元のメロディに戻って、懐かしさと安らぎが還ってくる。そんな感じですが、こうしてみると、日本の曲をジャズとして聴かせるには、大変な力量が必要のようです。確かに、皆さん相当な実力プレイヤーばかりです。

こんな昔なじみの日本の曲を聴くたびに、ジャズを聴き始めた頃、強烈な印象を持った穐吉敏子さんの「Long Yellow Road」を思い起こしています。戦後、満州から引き揚げてきて、米軍キャンプでピアノを弾き、レコードが擦り切れるほどに聞いて、採譜をしてジャズを勉強し、東京でプレイヤーとして活躍し、思わぬ縁でボストンのバークリー音楽院に留学し、優秀な成績で卒業。アメリカのクラブで弾いていると「バド・パウエル」の再来とまで言われた穐吉敏子さんですが、女性であることの妬み、日本人であることの偏見で壁に突き当たります。日本人である自分がジャズを演奏するとは、どんなことなのだろう。そんな時に、ふと自分の子供のころを思い出し、心の中に潜んでいた童謡「七つの子」に行きつきます。この曲をベースとして、子供のころの風景「黄色い色で長くどこまでも続く道」をタイトルにつけて、「Long Yellow Road」を作曲し、レコードアルバム「TOSHIKO MARIANO QUARTET」(CANDID版)に収録します。1960年のことです。
穐吉敏子さんの自叙伝「ジャズと生きる」(岩波新書)では、淡々と描いています。引用すると、「アメリカ唯一の文化、ジャズに携わる『黄色い』プレイヤーの私は、これからの長い険しい道を想像して、レコーディングのために『ロング・イエロー・ロード』という曲を書き下ろした」。
今風の言葉で言うと、自分の「Identity」を表したということでしょうか。

小学校の時代に習った童謡やテレビで流れていた曲が、心の奥底に潜んでいるのでしょう。そこに刺激が与えられ、親近感が生まれてくるということではないでしょうか。単に、郷愁ということで片づけられないような。
亡くなった小曽根実さんがよく言われ、実践していた「おもろなければジャズじゃない」。この「面白い」という言葉は、単に「快楽」というだけではない、含蓄のある言葉だと思うのですが、ジャズを楽しみ、親しみを持ってもらうというのも「関西のジャズ」「神戸のジャズ」の一つの面かもしれません。

新開地「喜楽館」での演奏の様子

 

KOBE JAZZ DAY 2019 ステージの様子

 

(ジャズの街・神戸推進協議会メンバー 安田英俊)

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