神戸とJAZZの歴史

安田 英俊

戦前戦後のジャズ状況

 

宝塚少女歌劇団を退団し、プロのジャズバンドを編成した井田一郎が神戸で初めてジャズを演奏した1923年(大正12年)頃は、日本で最大の経済都市大阪と東洋一の港町神戸の間、六甲山系を背にした港を望む一帯に、西洋文化を取り入れた建物が立ち並び、多くの経済人、文化人が住み、文化の華が大きく開いた時代でした。ダンスホールは、1917年(大正6年)頃から出来始めましたが、特に1923年9月の関東大震災以降は、文化の中心が大阪に移り、神戸、大阪には多くのダンスホールや劇場が出来、そこではジャズが盛んに演奏されていたそうです。専属のジャズバンドもいくつか結成されました。その頃は、ジャズは鑑賞するものではなく、ダンスのための音楽でした。本場アメリカでも、1920年代、30年代といえば、ベニー・グッドマンを初めとする白人たちが踊るための音楽としてのジャズ全盛時代です。4拍子の軽快な音楽。体全体で受け止める音楽、自然と体が動いてしまいます。

昭和の初期になると大阪でのダンスホールが厳しく規制され、西宮、神戸に移ってきたのですが、井田一郎は東京に移り、1928年(昭和3年)に発売され、ジャズとして日本初のヒット曲となった「私の青空」「アラビアの唄」のレコーディングに参加しています。その後1937年(昭和12年)には、日中戦争が始まり、戦時下では、敵性音楽であるジャズは演奏されなくなります。自由劇場の舞台で、映画にもなった「上海バンスキング」は、ご存知でしょうか。ジャズの演奏家たちは日本を去り上海へと移り住みます。

 

 

戦時中は、神戸でジャズを演奏する場はなかったとは思いますが、勉強していた人はいたのでしょうか。残念ながら、その頃のことはよくわかっていないのですが、戦後になって米軍のキャンプが出来、そこではジャズが演奏されていたようです。神戸にも、新開地に「ウエストキャンプ」、三宮の南に「イーストキャンプ」があったそうです。もっとも、日本人は出入りできなかったのですが、演奏者は日本人。そこで大いに腕を磨いたことと思います。東京を中心として全国のキャンプでは、ジョージ川口、松本英彦、秋吉敏子といったその後の日本のジャズ界をリードする人たちはもとより、作曲家の平岡精二、バンドリーダーの原信夫、歌手の江利ちえみ、ペギー葉山といった戦後の歌謡曲を担う人たちもいました。

みなさんジャズ精神旺盛なのは、その魅力に取りつかれていたんでしょうね。

 

 

ポータルサイト「ジャズの街~神戸」元編集長  安田英俊

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